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トークイベント「周縁を解く」

話者:三瓶玲奈、カニエ・ナハ、長谷川祐輔(哲学のテーブル)、中島紗知(Gallery Pictor)
開催日:2023年8月26日
会場:Gallery Pictor

 

2023年8月19日(土)~9月8日(金)、Gallery Pictorにて三瓶 玲奈 ソロ・エキシビション《周縁を解く》を開催しました。三瓶はこれまで、目に見えるイメージを解体し、視覚を通じて私たちが「対象を捉えた」と判断することの不安定さを問いかけてきました。「水の入ったコップ」は三瓶が数年間取り組み続けるモチーフです。

トークイベントでは、詩人のカニエ・ナハ、美学者で一般社団法人「哲学のテーブル」代表理事の長谷川祐輔とともに、ものを見る/知覚する、絵で表現する/言葉で表現する、他者とコミュニケーションする–––その周縁にあるものを含めて–––、その過程にある様々な受容、思考、葛藤、ズレ、閃き….などなどについて、結論のない対話が広がりました。

 


 

三瓶玲奈 展《周縁を解く》展示風景 2023年8月19日〜9月8日

 

(M:三瓶、K:カニエ、H:長谷川、N:中島、G: 参加者)

 

H:  本日ファシリテーターを務めさせていただく、哲学のテーブルという団体を主催しています長谷川です。作品を創っている人たちと関わって、そこから生まれてくる話を踏まえて哲学的な議論をしたり、実践と思索を往復するような哲学のスタイルを提示したいと思って活動しています。今日は後半に質問の時間も設けますので、皆さんぜひ質問をするつもりで聞いていただければと思います。

では、はじめに三瓶さんから制作テーマや作品についてお話を伺いましょう。

 

M:  今回《周縁を解く》というタイトルで、コップだけをモチーフとした絵の展覧会を初めて開催させていただきました。コップというモチーフ自体は2015年から描いています。

2018年頃から描いている「線を見る」というシリーズがあるのですが、これはある風景から線を見出すことができると感じたことから作品を展開していきました。でもそれより前から、「いかに(造形的な)線を描くか」という関心がありました。その時のヒントになっていたのがこのコップのリム(縁)の部分。この部分にたとえば強い赤とかが反射しやすくて、これを線として拾うと、自分にとっては輪郭よりもリアルな線に感じる、ということからコップというモチーフを描き始めました。

先ほどカニエさんからご紹介もあった谷川俊太郎さんの『定義』という詩集には–––私は17歳の時に初めて読みましたが–––コップについての2つの詩があって、その中には「絵画ではできない」というような記述があるんです。

私はその詩が紙にコピーされたものをずっと持っていました。今考えてみると、自分の絵で何を描こうとしているかを見直す時の、都度立ち返る点のような位置づけに、いつの間にか、なってしまった詩でもあります。

 

 

「周縁」という言葉を得たときに、

「中心」は最後にくるものだと感じました(三瓶)

 

 

M:  そういう風に、コップに対して色んな関心を持ちつつ点々と描いていたんですが、タイトルをずっとつけられなかったんですね。「定義」というタイトルを付けてみたり(笑)、今は作品名を「Glass」、展覧会タイトルは《周縁を解く》としています。

今回、コップをモチーフに個展をしようということになって、5年以上つけられなかったコップのタイトルをどうしようか、と悩みました。まずはデッサンをしていて、コップを見て描こうとすると、映っている光だとか、コップを置いている机の天板だとか、ガラスや水に反射している周囲の環境を拾っていくことでしか描けないんじゃないかと思ったんです。でも周囲そのものを描くのとも違う、じゃあコップを描くってどういうことなの?と。

そんな風にして「周縁」という言葉を得たときに、「中心」は最後にくるものだと感じました。「中心」と「周縁」って多様性や政治的な意味でもさまざまな分野で話されていて、絵画においては「図」と「地」の関係が重なるようにも感じます。そういうものを照らし合わせて、今回は周縁を「解(と)く」と読むことにしたんですが、「ほどく」とも読むことができます。見たり触ったりしているコップに少し近づけるのではないか、という試みとしてこのタイトルを付けました。

 

 

H:  三瓶さんの中で「周縁」という言葉はどんな流れで定着していきましたか?

 

M:  最初は「環境」という言葉を使っていたと思うのですが、範囲が広すぎて色んな意味を含んでしまうので、そこからさらに語彙を探して「周縁」に辿りついたのだと思います。ノートを見返すと「境界」という言葉もメモしてあります。

 

H:  普通はコップを描くとなるとコップを中心と捉えると思うのですが、コップだけを描くことはできない、という三瓶さんのお話は印象的ですね。そこには「描く」という行為と「見る」という行為があると思います。今私たちの目の前にもコップが置いてありますが、コップを見ようとするとコップに反射しているものや、ガラスを通して向こうにあるものも透けて見えてしまう。コップを見るという行為には、そもそもコップ以外のものを見ることも含まれている。

「コップを見ること」の周縁をほぐしていくことで、むしろコップをコップとして成立させている色んな要素−−光や屈折など−−を浮かび上がらせていく。

 

 

今まで描いてきた経験の見方を通して

いかに視界をクリアにするかという試みは常に行っています(三瓶)

 

 

K:  それで思い出したのですが、Web上の美術手帖のインタビューで「線を見る」シリーズについて語られていましたよね。線を描くためにその周囲から描くというようなことを仰っていて、それと同じようなことが今回のコップをモチーフとした作品でも起きているんじゃないかと思いました。風景の中に線はなくて、線を見つけるために周囲を凝視する。今回の「Glass」と「線を見る」のシリーズとは連関しているようにも感じられますが、三瓶さんご自身で意識していらっしゃるつながりはありますか?

 

M:  確かに「線を見る」と、特に《周縁を解く》での「Glass」の作り方は似ていると感じます。同じコップでもその時ごとに注目している部分が違っていて、周縁という言葉の中に今まで描いてきた経験−−例えば「線を見る」で得た経験もそうですが−−を巻き込みたいとは考えていました。

今回に限らず、いかに今まで描いてきた経験の見方を通して視界をクリアにするかという試みは常に行っています。駄目だったら人前に出さないだけで(笑)。例えば今年(2023年)の初めの個展でも、「持続する水面」というコップの絵を出しましたが、あれはコップの中の水の水位に着目していて、その水位がつくられた状況を描いたものでした。テーブルを挟んで誰かと会話をしているだとか、何か目的を持った場の中でコップの水位が下がって、足されて、そのままにされたり。今回の個展にもその見方を含めたかったんですけど、ちょっと描けなくて。そういう場に出会わなかったというのもありますが。

 

 

あたかも赤ん坊とか虫とかの視点で

見せられているような感覚にさせられる(カニエ)

 

 

K:  絵は駄目だったら出さないと仰ったけど、言葉に出てくるものはありますね。

今お話を聞いていても、三瓶さんの発する言葉の独特の深まり方がありますね。例えば「環境」という言葉は日々耳にすると思うんだけど、三瓶さんが口に出す「環境」は、絵を描くという仕事を通して深められてきたもので。私も言葉を専門にやってる人間なので、ドキッとするんですよ。

環境について絵画で試みられてきた成功体験も失敗体験も、その「環境」って言葉の中には表裏として束ねられて表出しているんですね。失敗した絵は出さないけど、言葉としては出てきている。「環境」ってこんな言葉だったっけ?とその言葉に含まれた層の厚さにドキッとさせられます。その上でこうしてコップの絵を見せられた時に、あれ、コップとはこんなものだったのか、私が知っているコップとは違う、というおののくような感覚があり、あたかも赤ん坊とか虫とかの視点で見せられているような感覚にさせられるのですが、それが言葉のレベルでも起きていると感じます。

 

 

H:  僕はこれまでの三瓶さんとの2回のお話やテキストのやり取りをした中で、「見る」ということがどれほど純粋だったかということを思いました。今、日常会話で「見る」というと、流通しているもの−−例えば本や展示−−にキャッチアップしておく、フォローする、つまり「見ておく」という意味合いが強いと感じるのですが、三瓶さんの「見る」という行為は自己との関係性が強くて、見ている対象が崩壊して自分が巻き込まれている。コップを見続けるのが辛いとも仰っていましたが、辛くなるまで「見る」。今回のギャラリープログラムのテーマは「あそび」ですが、おだやかなあそびではなくて、世間で主流になっている時間の流れとは距離をとった、重力を伴った遊戯的な態度がそこにあると感じました。

 

 

「見る」ということが

どれほど純粋だったかということを思いました(長谷川)

 

 

M:  「見る」ということで思うのは、自分の目を使ってしか見られないけど、自分がいかに普段からものが見えていないか、ということですね。コップをしっかり見ると全然形が成立しないように見えるんです。例えばハイライトの部分は随分手前に見える。たぶん同時に見られる明るさの範囲を超えているので、明るい方に合わせるとそうなってしまう。

それから、先ほどカニエさんが赤ん坊や虫など他の生き物のような視点を感じると仰って下さいましたが、魚の眼を意識することがあります。絵画は色の要素が強くて、明度と彩度のことを常に考えるのですが、人間にとってみずみずしく見える彩度の高い色が、水の中ではっきりと見える魚の眼をもってしたら、どんな色で、どんな像を結ぶのか・・・と考えるんです。そういう風にしないと自分の「見る」を相対化できないんですよね。「私にはこう見える」という主観にはあまり意味がないように思えて、「こう見えるのではないか」という前提をもっていたい。

 

H:  主観ではなくて他者と共有できる視点を持つということだと思うんですが、その辺りは先ほど仰っていた「ダメな絵は出さない」時の基準とも関係してきますか??

 

M:  主観になり過ぎていたら出さないかもしれないです。あとは「誰かの目」っぽいもの(笑)、絵的にうまくいったとしても既視感のあるものは気をつけますね。いい意味に捉えれば、自分の経験として見てきた良いものも悪いものも「周縁」として含めることはできるけど、ただそれを「自分のもの」として出すのは違う。これは咀嚼ができたと判断できるものは出すこともあるけど、今は出すタイミングではないということもあります。

 

K: 周縁と中心を二項対立といったん仮定すると、周縁のことを考え、周縁の眼差しを採集しつつも、三瓶さんは中心を非常に大事にされていると、今のお話を伺ってて受け取ったんだけど、そうなのかな?

 

M: 絵ですからね(笑)

 

K: カッコいいな(笑)

 

M:  私のとっている構図ってわりと中心のある、いわゆる「日の丸構図」と言われるものに近いと思うんですけど、モノを対象とするとそうなっていきますね。というのは、周縁と中心を二項対立にしないとすると、境界に対する考え方が絵に現れます。境界をどれだけ広くとるか、境界のグラデーションしか描かないということも可能かもしれません。

 

K:  そういう見方をすると、今回は同一サイズ(のキャンバス)で、天地の高さも揃っていますね。

 

M:  今回の個展をやるにあたって、モチーフに対して条件を決めたんです。まずコップには水を入れる。水位はともかく、水は入れる。色のついた液体はなしで、水だけ。コップの種類は限定しない。

 

 

遊ぶのがあんまり得意じゃないんですよ(笑)

自分の場合一番やりやすかったのは苦しい遊びをすることで。(三瓶)

 

 

K:  今回、《あそぶものたち・すさぶものたち》という1年間のプログラムに際して、プログラムの最初に出した三瓶さんのステートメントと、個展に寄せたステートメントと2つありますが、どちらも「あそぶ」ということを改めて意識するような文章ですよね。今お話しされた条件というのも、ある意味あそびのルール設定みたいなところがあるのかな?そもそもこれまでの「線を見る」「色を見る」のシリーズでもルール設定はあったのか、あったとして、今回「あそび」というワードを与えられて、いつもと異なったこととか意識したことはありますか?

 

M:  いっぱいある気がしますね。あるけど何も覚えていない(笑)

 

H:  「あそび」っていうキーワード自体は、今まで考えたことありますか?

 

M:  あんまりないですね。だから理解できなくてめちゃくちゃ読みました、中島さんが書いたあのプログラムのテキストを。いや、遊ぶのがあんまり得意じゃないんですよ(笑)。ただ、今回のテーマになった「あそび」「すさび」という言葉には、パッと連想するようなゲーム的な遊びじゃない意味が含まれていたので、自分の場合一番やりやすかったのは苦しい遊びをすることで。やっぱり強いボスを倒した方が愉しいですから。私にとってコップはずっとクリアできなかったモチーフで、だから今までコップだけの個展はできなくて、1点だけなら出すというような位置づけのものだったのですが、それを倒しにいく、という風に考えました。

 

 

 

 

K:  あーなるほど。「あそび」というテーマを与えられた時に、ある意味「ムリゲー」だったんですね(笑)

今回のプログラムでの「あそび」の意味合いの一つに「反復する」という要素がありますが、傍目から見ると三瓶さんのお仕事には−−あるモチーフのバリエーションを徹底してやるとか−−その要素がすごく強くあって、本人だけが気付いていなかったのかもしれませんね。

 

N:  三瓶さんの最初のステートメントには「視点を揺らす」と書かれていて、コップという単純なモチーフをどう多角的に見るか、視点を複数持つことが「あそび」なんだと、三瓶さんは最初のステートメントでそう気付いていたと思うんです。それはたぶん今までの「線を見る」などのシリーズでも取り組んでこられたことなんじゃないかな。先ほど、主観だけにならないようにしているというお話もありましたが、視点の揺らぎ方、一つの見方だけに留まらないで揺れ動くということが今回の「あそび」なんじゃないかな、と私はそんな風に見ていました。

 

 

遊びって何かを脱臼させる力があるものだと思っていて、

遊んでる時って消費に還元されないものが現れている気がしています。(長谷川)

 

 

H:  三瓶さんは遊ぶことが苦手だということなんですが、私けっこう遊ぶの好きなんですよ(笑)。例えば友達に、用がなくても連絡して遊びに行こうとか言える関係性って貴重だなと思っています。それで遊んでて思うのは、遊びなのか真面目なのか分からないことが結構あると思うんです。例えば大人が真剣に考えたコンセプトと子どもが何も考えずに発した言葉、どちらに力があるかというと微妙だったりする。遊びって何かを脱臼させる力があるものだと思っていて、遊んでる時って消費に還元されないものが現れている気がしています。

三瓶さんの「見る」という行為は、消費されないことに向き合っていて、そこにはシリアスな遊戯性があると思います。少し脱線しましたが、倒せないボスとしてのコップなんて、簡単に結果が出ないですよね。すぐに負けるわけでも勝てるわけでもない。

 

M:  今の長谷川さんのお話に一言で返すとしたら「大人はずるい」なんですよ。

 

H/K: ハハハ(笑)

 

M:  遊びが上手い、好きというのはたぶん愉しむことができるということだと思うんですけど、大人はゲームを愉しむためにルールを設定するんですよ。それも答えが出ないのを知っていて、遊び続ける。子どもの純粋な遊びとは違うし、遊んでいる振りのように思えてくる。

今回私が設定したコップに対しての条件は、自分の力のなさを認めることになりますけど、そういう遊びのルールとは違っていて。見ることをテーマ化した方が鑑賞者に問いかける絵になるかもしれないけど、自分が見ることができていなければ問いかけることすらできないわけで。

 

K:  そもそも子どもの頃の遊びがそんなに愉しかったかというと、僕個人の記憶としてはけっこう辛いことの方が多かったような気がして。子どもってマイナールールをどんどん作ってしまうから、ある子に有利なルールが別の子には負荷がかかったりするじゃない。遊びってポジティブな言葉だと捉えられるけど、実は幼少の頃の遊びはある種の苛烈さみたいなものを秘めていて、それを忘れて大人のずるさで「遊びは愉しいもの」とすり替えられているんだけど、大人になっても子どもの遊びの苛烈さを続けている三瓶さんという捉え方もできる(笑)

 

H:  遊ぶルールを作るのと、絵を描く時の条件を設定するのって方向性がたぶん逆なのかな。遊ぶ時のルールは先に決めるんだけど、三瓶さんの場合は突き進んでいくうちにルールが生まれ落ちてくるという気がしました。

 

M:  絵画はキャンバスという枠=縛りがそもそもあるので、それ以外のことをいかに自由にできるかなんです。落ちてくるルールはできるだけ落とさないように取っておくんですけど、四角いフレームの中で何かをするということ自体が強いルールではありますね。

 

K:  ここに並んでる絵ね、こうきてこうきて(図1)、似たルールの下にやっているのかなと思うと・・・あの1点は急に大きくなりましたね(図2)。ここで何が起こったんですか?ルールが変わった?三瓶さんの痛苦に満ちた一人遊びの中で。

 

図1(三瓶玲奈 展《周縁を解く》 展示風景 2023年8月19日〜9月8日)
図2(三瓶玲奈 展《周縁を解く》 展示風景 2023年8月19日〜9月8日)

 

M:  えっと、こっち(図1)の絵の時は近視的でコップというモノしか見えてなかったんですけど、あるタイミングでそれに気付いたんです。コップに近づき過ぎていて絵になっていないということに。こっち(図1)はコップの解釈を考えているとしたら、あっち(図2)はコップの絵について考えている、という感じ。こっち(図1)は言葉で説明できるロジックを持たせているけど、あっち(図2)は造形的なことにかなり振っています。そもそも絵で描く目的は何だったか、今の自分がコップの絵を描くとしたときに、自分が巻き込まれてきた周縁の中で絵を描くとしたらどんな一枚か、それを考えたら描かなきゃいけないなと、一番最後に描いた絵です。これだけコップを見ないで描きました。

 

N:  それは自由度が上がったということなんでしょうか?

 

M:  そうですね。またこれも「あそび」の中の「ゆきつ戻りつ」のようなところがあるんですけど、絵にはなったけどコップを描けたかというと・・・どうなんでしょうね(笑) 

 

三瓶さんはコップから離れずに、それを見ることを深めている。

と同時に見ることの不可能性を広げていくっていうことを

やっているんだと思うんですよ。(カニエ)

 

 

K:  今回僕も、三瓶さんが延々とコップを見つめられているのを真似して、例の谷川さんのコップの詩を毎日読んで、その詩の「周縁」に僕が思ったことを書き込むという作業をやってみたんです。バージョン9までやりました。

 

M:  朝方に送られてくるんですよ、これが(笑)

 

K:  そうそう、2時頃に始めてね、4時とか5時に送るの(笑) こんなに一篇の詩を毎晩仔細に眺めるなんてやったことなくて、もう飽きちゃうぐらい。これを何年も続けたら三瓶さんの領域にいけるかなぁと思ってね。三瓶さんの仕事の途方もなさ、粘り強さというのを少しでも追体験したいなと、こういうことをやってみたんですよ。

僕の普段の制作方法だと、一つの対象をみつめるところから始めて遠くまでジャンプしていっちゃうんですよ。でも三瓶さんはコップから離れずに、それを見ることを深めている。と同時に見ることの不可能性を広げていくっていうことをやっているんだと思うんですよ。この谷川さんの詩を、一時分かったようなつもりになるけど、分からなさの深みにどれだけハマれるかをやってみたかったんですよね。

 

 

H:  今日はカニエさんから皆さんにお土産ということで「3つのコップと1つのテーブル」という詩を作ってきていただきました。「3つのコップ」は我々3人のことでもあり、「三つの瓶」で三瓶さんのことでもあり、「テーブル」は私が代表をしている「哲学のテーブル」という団体の意味も含めていただきました。

それじゃあ、時間的にもこの辺りで、皆さんから質問をお受けしたいと思います。

 

G1:  コップはコップだけで描くことはできないと仰っていたのですが、逆に「それだけで描けるもの」ってありますか?

 

M:  えーーー、何だろ。いや、こういうの楽しいですね(笑) パッと思い浮かんだのは「面」かな・・・

 

G1:  水面とか、何かの表面ということですか?

 

M:  いえ、もっと造形的な意味での、「点・線・面」の「面」という意味だったんですけど、でも違うかも。

 

H:  それだけでは描けない?

 

M:  図と地がある、余白がある、構図があるっていうのは、手段と目的で言うと「手段的な絵」なんですよ。でも図と地を感じない、余白もない、ただその対象だけ、という絵を描けたらそれはとんでもないことかもしれない。そんな絵を描けたら理想かもしれないですね。

 

G2:  さっきポロッと「楽しい」と仰ったのですが、今回のプログラムテーマが「あそび」ということも踏まえて、三瓶さんにとって楽しいこと、辛いことは、どんなことなんでしょう?

 

M:  今楽しいと感じているのは対話かな。人と話して何かを得られる楽しさと喜び。一人でやっていて外からのレスポンスがない状態が続くとキツくて絵筆を取れなくなっていくこともあるんです。でも、自分は絵を描くのが本分なので、絵やモチーフから得られる応答に優るものはない、まぁ優劣もないんですけど。描きたいのに描けないのは辛いです。・・・今気付いたんですが、さっき「(本気で遊べない)大人はずるい」って言ったのに、楽しいって言っちゃってる自分に衝撃を受けています(笑)。いい加減なもんですね。

 

K:  でも「あそび」っぽいかもね(笑)。苦痛が極まったときにあそびに反転したり、楽しいと思ったら苦痛が訪れたり、行ったり来たりするわけで。

 

H:  聞いてみたかったんですけど、「画家」についてはどう思いますか?自分が「画家」であることに葛藤があったり、自分を何と呼ぶか迷うことはありますか?

 

M:  それはないです(即答)。今はそうでもないですけど、前は話すよりも絵を描く方が早いというところがあって、絵画という一つの言語を持っていたくらいの感覚なんです。逆にそれを使わずにいかに話すかをあとから練習してきたので。

 

自分のものの見方には自覚的でありたいと思っています。(三瓶)

 

K:  一般的に見ることの方が話すよりも早く・多く情報を得られますよね。言葉で描写するとあまりにも多くのものがこぼれ落ちてしまう。

 

M:  絵は筆や絵具が拾ってくれる部分が結構あって、ただ、自分が意識しないものもたくさん拾ってしまって・・・絵に乗ってくるということは、日々何をどう考えているかが現れてしまうので・・・例えば、有名な画家の描き方とか、そういうのは意識的に排除するか、拾い方をさらに意識しなくちゃいけない。自分のものの見方には自覚的でありたいと思っています。

 

G3:  今回のモチーフではコップに水を入れることを条件にしていたということですが、理由はありますか?というのは、周縁の縁、つまりコップの縁には「あちら側」と「こちら側」を結ぶ役割もあるような気がして、コップに水を入れなければ、内側も外側も空気で満たされているだけだけど、密度は違うような気がするし、そこにさらに水を入れる理由はあるのかなって。

 

M:  今のめちゃくちゃ「あそんで」ますね(笑) コップがコップだということを忘れないと今の問いって出ないんですよ。空の時には空気で満たされてるとか、水が入るとそれが別質のものになるって、当たり前のこととしてしまっているので、私自身はそこに至るまでに時間がかかりました。実は今仰ったことは谷川さんの詩に明確に書かれていて、谷川さんの場合は(コップがコップであることを忘れるために)コップを割ってしまうんですけど、割ってもなおそこに(コップとして)存在している。

水を入れることにしていたのは、飲む道具であることを忘れないための条件づけです。そうでなければコップでなくても、例えばガラスのランプシェードとかでも良いことになってしまうので。

 

三瓶玲奈 展《周縁を解く》展示風景 2023年8月19日〜9月8日

 

G3:  透明であることも条件の一つでしたか?

 

M:  そうです。マグカップや銀食器ではなく。ガラスのコップの何が特徴的かというと、水面に対して水を側面からも見られることだと今は考えているんです。コップの起源についてまだ文献を調べている途中ではあるんですけど、17世紀ごろに普及したもののようです。ということは、水の側面を見られるようになって数百年しか経っていないんですよね。

 

G4:  構図は縦長が多いですが、横長にするとコップ以外の部分が増えますね。縦長で描こうという条件は設定しましたか?

 

M:  いえ、それはないですね。大前提としてキャンバスも紙も矩形というのはあるのですが、横長の構図は、コップを通した光や影までコップとすると仮定した結果です。そこまでを描こうとすると横長になる。

 

H:  三瓶さんにとってコップに代わりうる何かってあるんですか?

 

M:  あ、全然あるんじゃないですかね。でもコップは「倒せない」からずっとやっています。

 

H:  倒せる敵はいっぱいいる?

 

M:  いや、いないですいないです(笑) たとえば、人を直接的に描くのはすごく怖いです。人に関しては見えている部分ですら描けるものがほとんどないような気がして。例えば身体の中身は簡単に見えないですよね。もちろん絵として描くことと、見えていることは別ではあるから、人を描いた絵を認めていないわけでもないです。

 

誰一人として同じ見え方はしていない。

そのくらい不安定な知覚・認識の中で生きているということは思っていたい。(三瓶)

 

 

H:  「言葉の通じなさ」については考えられたりしますけど、見ることについてはそれほど話題になったりしないかもしれませんね。同じ作品を見たという意味での「見る」ではなく、今自分に見えている目の前のコップは、隣にいる人にも同じように見えているだろうか、といった意味での「見ること」の通訳可能性については、「言葉の通じなさ」ほど人と話すことが少ない。ここにコップがあって、見えてないとは思わない。

 

M:  でも誰一人として同じ見え方はしていない。今ここでそう言うと、作品がすごく危ういものになりますけど、でもそのくらい不安定な知覚・認識の中で生きているということは思っていたい。

 

H:  見ているものが同じなのかって、確認する手段がないですよね。ここにコップがある、自分にはこう見えているってどれだけ描写しても、相手のそれと同じなのかは、確認する術がない。そういう中で人間は生きていると。

というところで、そろそろ時間なので、言い残したことはありませんか?

 

M:  中途半端に終わらせておいた方が・・・(笑)

 

H:  そうですね。解かれるべき周縁を残して終わりましょう。

 


 

協力: Yutaka Kikutake Gallery

撮影: 河本 蓮大朗(展示風景)、(一社)哲学のテーブル 阿部 七海(トークイベント風景)

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