[ESSAY:07] 足元の巨人 – 記憶を継ぐということ
「私」の前に存在していた誰かの声
前回のエッセイ「ディストピアの理想郷」で、既に消えてなくなった場所の記憶が語り継がれるということについて書いたのですが、個人ではなくコミュニティ、集合体が記憶するものについて考えてみます。
私には20代の頃、何度も何度も読んだ文章があります。誰でもそういうものが––好きな小説、好きなエッセイ、好きな詩、あるいは好きな歌詞などが––あるものですよね。自分では言語化できない感情を、その文章が代弁してくれている、と感じることがその文章に感情移入するよくある理由、というか自分で認識しがちな理由だと思うのですが、最近、ある文章を読んで、この感情は私という個人から生まれたものではなく、私の前に存在していた誰かのものなのではないか、と感じることがありました。(スピリチュアルっぽい話ではありません。)
それは、戦争についての文章でした。その文章を書いた作家が、私が20代の頃に何度も読んでいた小説の書き手だからというのはあるのかもしれませんが、読んでいるうちに涙が滲み、身体が震えはじめました。体験していないことにそこまで感情移入する理由は、私という個人の中にはありません。
この時と同じように、自分の体験に基づかない物語に対して心をえぐられるような感覚に陥ったのが、5回目のエッセイ「香港の詩人たちを思う」でも紹介した堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』です。いずれも、個人が国家に、あるいはイデオロギーに翻弄されて苦しむ物語です。たぶん私は自分でも知らないうちに、そういう種類の物事に対する感受性を身につけてしまったのでしょう。
記憶と、そこから生まれる感情は個人のものか
この「自分でも知らないうちに身につけてしまった」ということに気づいて、過去の記憶が何に根ざしているのか、その源流を知らなければ、時に恐ろしいことが起こります。
戦争や紛争、悪政による弾圧などによって、あるグループに属する人々が受けた苦しみや悲しみが「共同体の記憶」として世代を超えて引き継がれ、それが個人に及ぼす影響を、カズオ・イシグロは『忘れられた巨人』(2015)というファンタジー小説で描きました。イシグロ氏はこの小説を書くきっかけになったのは1990年代のユーゴスラビア紛争だったと語っており、この紛争の発端は、共同体がもつ過去の記憶が呼び覚まされたことと無関係ではないことを指摘しています。
記憶は残ることもあれば、忘れることもあります。そのどちらも、個人の機能でありながら実は集団的に操作されうるものでもあります。それを操作できる代表的なものが、教育、メディア、そして芸術です。芸術がプロパガンダに使われてきたのは昔の話ではなく、現在でもエンターテイメントの仮面をかぶって存在しています。そして個人が匿名でも全世界に発信できるようになった現代、メディアに流れる情報は玉石混淆です。玉ではなく石ころの情報でも、センセーショナルな内容であるほど流布されます。
だから私たちは、自分が体験していない過去の記憶によって圧倒的な力を感じた時、感情が揺さぶられた時には、その記憶の源流を意識しなければならないし、その「力」や「揺さぶり」を受けて今現在の自分がどう行動すべきかを判断しなければならないと思うのです。
足元には自分の知らない強大な力を持った「巨人」が潜んでいるかもしれないのですから。