[ESSAY:12] 江湖−自由な世界へ|河本蓮大朗展 [時の布] につながる点(5)
6回連続で綴る「河本蓮大朗展 [時の布] につながる点」の5回目です。
1~3回目で、鎌倉・禅宗・茶の湯・織物文化の関係を紐解きました。4回目と今回は、禅宗を通じてもたらされた思想にレンズを広げ、私たちが現代社会を生きるための智慧を探っています。前回「12世紀の行動科学」では、朱子の「理気二元論」を取り上げました。今回は、「江湖(ごうこ)」です。
二つの「江湖」
江湖という言葉は、現代日本では一般的に馴染みの薄いものではないかと思います。禅宗では、夏安居と言って夏の間に僧たちが集まって行う合宿のような修行を江湖会(ごうこえ)と読んでいるそうです。その語源は、中国唐代の8世紀に遡り、当時の禅僧のツートップ、江西にいる馬祖道一と湖南にいる石頭希遷という二人の師に参学することを指し、それぞれの地名の一字をとって「江湖」となったと言われています。
そして、江湖にはもう一つ別の意味があります。
時代は下って、14世紀の日本。将軍・足利義満の時代です。その義満の信任を受けた禅僧・義堂周信が、将軍から直々に寺院の住持(住職)を続けるよう促されて、それを辞するためにこのような返答をしています。
「老来にして住院するは小池の魚、江湖に放ち向かわば楽有余」
(義堂周信の日記『空華日用工夫略集』より)
「年老いて寺に留まるのは、小池に閉じ込められた魚のようだ」と言っています。続いて、「江湖に放たれたい」と言っているので、「江湖」は「小池」の対義語、つまり大海のように自由な世界を指していると思われ、先ほどの禅の修行とは別の意味で使われています。
こちらの語源を辿ると、なんと紀元前3世紀の『荘子』。「江湖」は古語で広い世界のことを表し、そこから、俗世間から離れた隠士が住まう世界のことを指すようになったそうです。
義堂周信は中国文化・思想に明るく、当時重視された中国との貿易・外交においてパイプ役となり、通商・外務相のような働きをするなど、政権のブレーンとして活躍するほどの人物でした。勝ち組と言っていい部類の人かもしれませんが、しかし本分は禅僧ですし、義堂の詩文集『空華集』からは神仙思想* を抱いたことも伺えます。それが現実には、権力と結託し、その「使い」として生きている。そこには相当のジレンマを感じていたはずです。「江湖」はしがらみを解いて自分の意思で選んだ道の先にある、理想の世界だったのです。
*神仙思想・・・不老不死の仙人=神仙となって異世界に住まうことを希求したユートピア的思想。古代中国で信仰された。
今こそ、江湖に放ち向かわば
ところで、この後義堂周信は「江湖」へと泳ぎ出したのでしょうか?
気になって調べたのですが、どうも実現しなかったようです。先ほどの「江湖に放ち向かわば・・・」という日記の日付が1368年。おそらく鎌倉の円覚寺に住院していた時です。しかしその翌年1369年に、同じ鎌倉の瑞泉寺に住院、さらに1372年に報恩寺(現在の神奈川県綾瀬市)、1377年に円覚寺に戻り、1380年に帰京した後、建仁寺・等持院・大慈院・南禅寺などの寺院を歴住した、とあります・・・。しがらみを断つのは難しかったようですね。
ともあれ、「江湖」という思想はその後も権力や既得権益などから解き放たれた自由で新しい世界の象徴として生き続け、明治期の日本では自由民権運動の思想家たちに使われたりしています。
現代に照らしてみると、戦後に築かれた旧態依然の概念やシステムが崩れ始めている今、次々と「江湖」を目指す人たちがすでに現れているような気がして、近い将来、どこかで義堂周信が報われる時がくるのではないか・・・と私は勝手に想像しているのです。
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