Get insight from Arts|Gallery Pictor

[ESSAY:09] 鎌倉時代の国際交流センター|河本蓮大朗展 [時の布] につながる点(2)

LINEで送る
Pocket

建長寺総門から三門の屋根を臨む。春には二つの門の間を桜がつなぐ。

 

6回連続で綴る「河本蓮大朗展 [時の布] につながる点」の2回目です。前回は、この展覧会の企画のきっかけになった河本さんのFragmentというシリーズとの出会いをお話しました([ESSAY:08] Fragmentに出会う)。

 

今回の展示は、Gallery Pictorだけでなく、鎌倉の禅宗寺院・建長寺でも3日間限定の展示を行います。なぜ建長寺さんなのか?鎌倉–禅宗織物の関係を紐解いていきます。

 

巨福山建長寺は、臨済宗という禅宗五家の一つに連なり、日本においては臨済宗14宗派のうちの建長寺派の大本山です。また、日本に禅宗が持ち込まれた13世紀(鎌倉時代)に定められた五山制度(臨済宗の寺格を表す制度)で、鎌倉五山の第一位に位置付けられ、これは21世紀となった現在まで引き継がれているようです。この寺格が現在も何か実効性を持っているものなのかどうかは不明ですが、建長寺が五山の一位を成した当時の鎌倉の様子をうかがうと、それは必然とも言える状況だったことが分かります。

 

 

禅宗はどのようにしてメインストリームとなったか

 

鎌倉時代前半の日本では、仏教は顕密が主流で、禅宗はまだ新興宗教の位置付けでした。

政権は源氏にあり、御家人である北条氏が執権を担っていましたが、この頃、三代将軍・実朝が暗殺され、源氏の中では家督を継ぐ者が不在で揺らいでいました。苦肉の策で、京都の摂関家からまだ幼児だった藤原頼経を迎えましたが、実力者を失った将軍家とその家来である執権の権力が拮抗し始めます。権力争いの火種を保ったまま、頼経が成人し、その息子に将軍の座を譲り渡した後、時の執権・北条時頼が、将軍勢力を追放。

この時、時頼は源氏の整備した顕密仏教を「反対勢力」として抑え込むために、まだ新興宗教で政治的な勢力とつながっていない禅宗の育成に乗り出したのです。

そこに、日本で禅宗を広めようと、中国(南宋)から蘭渓道隆が来日します。

 

日本から宋へ渡り、帰国して禅宗を伝えた人物に栄西や道元がいます。時頼は当初、道元を鎌倉に呼び寄せて禅寺開山を持ちかけましたが、道元はこれを断って永平寺(現在の福井県)に戻っています。一方の蘭渓道隆は、日本側から招かれたわけでもなく自らの意志で来日した渡来僧でしたが、幕府と通じていた泉涌寺を介して、時頼に謁見しました。

結果的に時頼は蘭渓道隆を住持(住職)に迎え、建長寺を創建させます。

 

 

建長寺は国際交流センターへ

 

最高権力者の時頼が厚く信仰したことで、新興宗教だった禅宗は一大勢力に発展していきます。また、蘭渓道隆が南宋人だったこともあり、かの国からの渡来僧・帰国僧が建長寺を頻繁に訪れるようになります。南宋は、当時の日本から見れば先進国。儒学から朱子学が生まれ、理知的な思想哲学が発展し、美術や工芸などの文化も洗練されていました。

 

こういった南宋文化は、かつては必ず京都や博多といった中継地を通して、政権をおく鎌倉に伝えられたのです。というのは、時頼が実権を握る前の幕府では、仏教に関しては京都(にいる帰国僧)を介して、貿易に関しては博多(にいる海運業者)を介して、情報やモノを入手していました。

しかし、建長寺には南宋からの渡来僧・帰国僧が生の情報やモノをもたらし、さながら国際交流センターの役割を果たします。時頼が度々、建長寺の道隆の元を訪れたのは、宗教としての禅に帰依したこともあるでしょうが、大陸の情報収集という目的が多分にあったのではないでしょうか。いわば政府の諮問委員会として機能したかもしれません。

こうして、建長寺は政治・文化の要衝地となるのです。

 

 

禅宗とともに伝えられた織物

 

南宋からの文化の流入で、鎌倉人はそれまでに見たことのない織物と出会うことになります。

下の画像は、福岡市の勝福寺に収蔵されている蘭渓道隆像。腰掛けた椅子にはパッチワークのように色とりどりの裂地を縫い合わせた布が掛けられています。また、道隆の身につけた袈裟には流麗な文様が施されています。

「あざやかな色彩の法被は当時舶載された中国産の絹織物を表現しようとしたものであろう。亀甲又や七宝繋ぎ文などの幾何学文をはじめ、龍、応龍、鳳凰などの文様もみられる」(福岡市博物館『博多禅 日本禅宗文化の発生と展開』)

 

蘭渓道隆像(勝福寺蔵)

 

禅僧が持ち込んだ織物=袈裟や仏典の包み裂、仏殿の打敷などは、禅とともに伝えられ、後に日本独自の文化に発展する茶の湯の道具(表装裂や茶入の仕覆)に使用され、後世の大名家や社寺などが「名物裂(ぎれ)」として珍重しました。現在も茶の湯や着物の世界に逸品として伝わっています。

 

次回は、禅とともに伝わった茶の湯と、名物裂の世界をのぞいてみます。

 

 

▼河本蓮大朗 展 [時の布] 詳細はこちら▼

この記事を書いた人

中島 紗知 |Gallery Pictor オーナー

画業を営む両親の元に生まれ、幼少期より美術に親しむ。監査法人グループ等にて企業のESGマネジメントコンサルティングに従事した後、2019年 Gallery Pictor 設立。 1999年神戸大学卒業、2015年慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。東京大学主催・文化庁推進事業「社会を指向する芸術のためのアートマネジメント育成事業(AMSEA)」2017年度修了。

この著者の記事一覧

コメントは受け付けていません。

LINEで送る
Pocket

SHARE
PAGE TOP